僕らが光っていられない夜に

世の中に蔓延る、生きるのって簡単じゃないよね〜みたいな曲って、大抵2番になると"大事な人"が出てくるような気がする。

いやいるんかい、ってなる。

恋人いるんかい、って。

私は、人生辛い辛いもうやめたい死にたい。でも君がいるから生きようと思えるよ、みたいな歌詞が大の苦手だ。

まだ高校生のガキが何を言っているんだと思うかもしれないが、今回ばっかりは許して欲しい。私の思ったことを率直に書きたい。

そこまで生きるの難しいって嘆くんだったら、幸せになりたいと悶えるのだったら、恋人いないでいてくれよ。

私たちの立つ瀬がないだろ。恋人すら、信頼できる相手すら、好きな人すらいない私たちの。

恋人がいる人間の「生きるの難しい」と、心を許せる相手が1人もいない人間の「生きるの難しい」だと、世間の見る目が違うんだよ。私の今の言語力ではうまく表現できないけれど、恋人がいる人間は素直に、言葉通りに受け取ってもらえるかもしれないけど、恋人がいないような人間は、そうやって生きてきたあんたが悪いね、論破、みたいな風に思われてしまうんだよ。この違いがわかるか、あんたに。

心がどん底に行ってしまって、どうしても感傷的になる夜に、助けを求めて聴きに行ったはずなのに、なぜかぶん殴られたような気分になる。

恋人がいる=幸せだとは思わないけれど、君がいれば全部大丈夫だよ、みたいな歌詞を書くならお前は人生まだまだ大丈夫じゃん。私とは違うじゃん、と思う。そこ以外の歌詞にはとても共感して涙が出てくるのに、"君"って歌詞が出てくると一気に突き放された気分になって余計に病んでしまうことが多い。

いちいち気にしすぎだと思うだろう。私も思う。でもどうしても、私は自分と全く同じ境遇の人間を無意識にも求めてしまう。それはこんな風に曲の歌詞にまで及ぶ。1人じゃないんだ。そう思いたいだけだ。

そういう気分の時に"君"という歌詞は天敵と化す。

大事な人いるんだったら私よりはまだ幸せじゃん。私はこの歌詞以下の人生なんだ、って。

まぁ言ってしまえばこうだ。羨ましいだけだ。

自分が愛してやまない人物に、同じか、それ以上の愛を返してもらえる。そうではない恋人同士はもちろんいるだろうが、曲の歌詞に書いてしまうぐらいだからきっとそうだろう。

正直に言う。羨ましい。

親以外から分かりやすい愛を受け取ったことのない私は、血縁関係のない人間と愛し合うってことがどんなことか、まだ知らない。親の抱擁に似た愛もいいものだが、恋人として感じる愛はなんの感覚に似ているのか、まだわからないということが悔しい。

でもきっと心地いいものなんだと思う。私の好きな椎名林檎も、カネコアヤノも、aikoも、宇多田ヒカルも、愛を描くことを得意としている。だからきっと良いものなんだと思う。

だが、羨ましいと言う感情は私にとって苦痛と同義だ。

自分に持っていないものを持っている人を見る時、私はいつも吐きそうな思いになる。

私はきっと、「嫉妬」という感情が、普通の人よりドロドロしているのだと思う。

だから恋愛ソングが苦手だ。人生の不幸を嘆く曲に恋人が出てくるような曲はもっと苦手だ。期待させないでくれ、私と同じだと思っちゃっただろ、と。

私は愛をまだよく知らない。知りたい。けど知れない、みんなのように。だから知っている人が羨ましい。それを生きる糧とできる人、君がいるから大丈夫と言い切れる人、愛が全てだと言える人、君が全てだと言える人。

羨ましい。羨ましくて吐きそうになる。私とは違う。今の私とは。死にたい夜、助けを求めるのが友人でも恋人でもなく、歌である私とは。

助けを求め伸ばした私の手が、握り返されることなく虚を仰ぐ。相手は私に見向きをせず、"君"に夢中な様子でその手を愛おしそうに握る。

そんな風に、曲に見放されてしまったような気分になる。

私が言いたいことはこれだけだ。

愛の意味を問わないでくれ。今の私に。

愛を尊さを説かないでくれ。今の私に。

私がそれどころではない夜に、愛を見せつけないでくれ。

もう、助けを求めた曲に傷つけられるのはごめんだ。

 

私はこんなことを、いつまで思い続けるのだろうか。

 


僕らが光っていられない夜に

愛の意味を分かれというのか

僕らが光っていられない夜に

 

 

 

 

 

僕らが光っていられない夜に / サニーデイ・サービス